ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

生後16日の乳児を死なせた両親の短いニュースを見て、私も同じことをやりそうになったなと思い出した。長子はとてもよく泣く赤子だった。出産した産院でもほかの赤子たちよりも泣き続け、退院後も9カ月くらいまでよく泣いた。抱いて歩いていると泣かないので夜間は夫と交代で歩き続け、日中は私が歩き続けた。1ヵ月健診までの時期は私も産後の疲れがあったのか、日中意識が朦朧とすることがあり、そんなときには泣く長子に蓋を被せる白昼夢を見た、何度も見た。蓋を被せると泣き声の音量が下がった。

 

幸い現実の私は長子に蓋を被せなかったが、今回の短いニュースを見た時には心底同情して、しばらくなら私が代わりに育ててあげたのに、そうすれば死なせなくて済んだのに、と思った。その後、詳細を伝える報道を見て、このクソ親め、必要以上に罰せられろ、と気持ちを変えたのだが。

 

私が当初思った、「しばらくの間なら代わりに育ててあげた」という部分が自分の中で引っかかった。それは、最悪のことは幼い命が失われること、それを見たくないから私が少しは助けてやってもいい。しかしながらずっとその命を請け負うつもりはない。自分の余力の範囲以外は無理、というただの自己満足の親切心まがいのものだ。

 

「子供を社会で育てる」や「地域で育てる」とよく耳にする。自分も税金や医療や教育など多くの面で社会の世話になって子育てをしている。知人や友人からの情報などもとても有り難い。自分だけで子育てをしているつもりは毛頭ない。皆さまのお陰です精神で低頭して毎日を過ごしているが、他人からは余力の範囲のものしかもらえないことも分かっている。

 

信頼できる人が多く周囲にいたから安心して子育て出来ました、というのは結果が良かった場合だけで、近隣住民に殺害された子供の親はそうは言わないだろう。 そしてその犯罪者を差して「あの人は変な人だった」、「そんなことをするようには見えなかった」などと無責任なコメントを周囲は発する。責任なんてないの だから当然。日々博愛的な人でさえ、個人的に深刻な問題を抱えたときにはそうはいかないのでは。結局余力だ。その子供を産むと決めて産んだ両親と並ぶほどに「この子を安全に、健康に、幸せに」という気持ちをもった人間などそうは存在しないと思う。私は我が子たちにとってそういう存在なのだと思っている。社会で閉鎖的に育てるつもりは皆目ないけれど、基幹ではあると思っている。

 

しかしながら、子供なんて一生懸命育てるものでもないとも思っている。語弊はあるが、オリジナル(自分)よりも満たされた人間を作る育成ゲームみたいな。クリアのために攻略本を読んだり、過去と周囲から傾向と対策を参考にしたり。私の人生80年のうちの4分の1だけを費やすゲーム。初っ端で蓋を被せなかったので、まだゲームを続けられている。楽しい。

私の知人の老人は「曾孫なんて他人みたいなもの」と言っていた。聞いた瞬間は薄情だなと思ったが、今はそんなものかなと思っている。