ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

好悪とか

いくつかのブログを読ませていただいて考えたこと。それらのブログを言及しませんが。今日の私は「スペインの赤ワインでしたたかに酔いながらグダグダ考えたことを書く中年女性」設定です。設定です。

 

「空気を読め」「察しろ」と言われることに臆病になり過ぎる自分は本当に自分自身を苦しめる。褒められても感謝されても素直に受け取らずに、嫌われてる気配だけを素直過ぎるほどに受け取ってしまい自己嫌悪。今は家庭もあって誰に嫌われても気にしない、むしろちょっと楽しいと思えるのだけれど、若い時には色々いろいろイロイロ考え過ぎていた。多分こんなことは、普通の人にはよくある若者の悩み。

 

誰かが何かを思う、ということ。これが自分にとって良質のものなのか悪質のものなのかということに左右されるとしんどい。どんなことだってどんなふうにだって他者は様々に考える。それは自分のコントロール外なので気にするだけ無駄。分かってはいてもそれが出来ないからしんどいんだよ、と。「他者は自分の鏡」ということを意識し過ぎて鏡ばっかり見ている状態になってしんどくなってもまだ鏡を見る。神話のナルシスばりに。

 

自分は誰かに疎まれたり好かれたりする。自分が人を傷つけたり、人から傷つけられたりする。自分が把握しなければならないのはどこ?好悪の割合?被害の量?加害の量?

実際に謝ったり謝られたりして済む話なんてほとんどないのではないかと思う。しかしながら怒っている人には謝る、社会性のある動物である人間として。そのあとのことは気にしても仕方ない。そのはず。しかしながら何かを掴もうとして考え続ける。もしも、とか、例えば、とか、不確かな条件を付随させて。

 

自分が接する全員と良好な関係なんて築けるわけがない。さっきも書いた通り、誰もが様々に考えるのだから。自分の気持ちが一方通行だったからってなんなんだ?当然のことなのでは。

そのあたりのことを自分で何とかしようとしている時期の長い半生でした。そしてその結果、多分幾分何とかすることを成功した結果。私は性格が悪いので、これらのことが巡って巡って転じて変な風になってきているかもしれない。たとえば、パート先で私を嫌っている(風に見える)人を私はとても好んでいて、その人は本当に有能で魅力的なのだ。有能な彼女は鈍臭い私を疎んでいるようなのだけれど、私はその人を好んでいる。私の好意が通じてしまったのか、その人が最近時々優しい。私に親切にしてくれたりする。それがとてつもなく居心地が悪い。私を嫌うということを含めてその人が好きだったのだ。