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ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

改行

つれづれ

1人の小学校教諭と膝を詰めて話す機会があり、日本の教育についての講釈を聞いた(ちなみに私自身は教育に携わってる人物ではないし、今回の話も1人の教諭の言葉からの感想であることを断っておきます)。教諭の話の本筋は、「詰め込み記憶型の学力だけではなく自由な応用力を鍛える学習がこれからの日本の教育現場に求めらる」というもの。それは納得できる。人生の大半を過ごす「大人」では応用力こそ大事であるのは明白だ。

 

しかしながら、教諭が話した国語という教科については納得できないものだった。教諭曰く、「行を丁寧に読むのは不要。全体をザっと眺めて読解する能力が必要。そういう読解から自分の意見や感想を表現する能力。昨今はウェブでも段落ごとではなく文ごとに改行されている。それは右脳読解のためであり、今後あらゆる文書でそういう流れになる。それに対応できる読解を国語教育で与える」と。多少乱暴なまとめ方をしたけれど、こういった内容だった。

 

納得できないだけでなく幾分悲しい気持ちにすらなった。私は本を読むのが早く、速読ではないけれど少々斜め読みをしてしまうのだ。せっかちな性格が災いしている。しかしながら私は斜め読みを好まない。文字の連続の中にある素敵な表現を見つけることが好きなのだ。私の言う素敵な表現とは、美しい表現とは違う。その人がその言葉を使おうとした経緯が「分かる」ような気がする部分に魅力を感じ素敵と思う。段落に決まりなどなく、改行や段落分けは書き手の判断に任せられるべきだ、と私は思う。

 

かつて流行っていた、今も流行っているかは知らないけれど、携帯小説のような陳腐な文章には改行が多い。見た目程度に中身がスカスカな。それも右脳信者には簡便な形なのかね、と嫌味を思う。国語以外の教科においては無駄を省いて真髄を求めることは必要な場面も多いだろうけれど、文章とはそういうものではないのでは。

 

教科としての国語と嗜好としての読書は別なのだろうけれど、教科としての国語の能力が蔓延すると嫌だなと思ったので愚痴として書いてみた。はてな内で私の知るブログにはギッシリ文字派が多いような気がするし、ギッシリ文字は良い。