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ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

色覚異常と言葉

つれづれ

色覚異常(以前は「色盲」と言われていた)の検査は、現在では保護者の同意があれば実施できるとのこと。色んな『配慮』から、らしい。

私が子供のときは、様々な色のドットの中に潜む数字を読み上げる検査だった。色覚異常のない私は「これは何の検査?」と感じながら数字を答えていた。

 

私の親族に色覚異常の人がおり、その人は緑と赤を判別できない。例えば携帯電話などの充電の「赤=充電中」「緑=充電完了」を見分けられない。場合によっては信号機の赤と青も色では判別できないので、灯る場所で赤と青を見分けていると言っていた。

信号機は表面に「赤に✖、黄に△、青に〇」と、黒のビニルテープくらいは貼るべきであると私は個人的に思っている。しかしながら、色覚異常の人は各自気をつけている一方、公としては配慮が足りないのだと思う。

 

私の大学時代の友人はサーモンピンクをベージュだと言った。私は「一般的には、これはサーモンピンクだと思うよ」と言いながら、違和感を感じた。

感じ方、とでも言うべきか。区別するのが主なの副なの、と。多くの人がそれをサーモンピンクだというからそれはサーモンピンクなのか、それともベージュにまとめる人がいるならまとめてもいいのでは、など。

 

ここまで。私が書いてきた、『色覚異常』と『健常』との間の問題。

色覚では、「これとこれは区別できますか→できます、できません」の区別でカテゴライズしてるのだろうけれど、言葉ではどうかな、と。「寂しい」と「侘しい」の差、「うるさい」と「騒がしい」の差、ほかにもたくさん。言葉に関しては「受け取り側の優劣(もしくは差異)」「発信者側の優劣(もしくは差異)」で語られがちだけれど、言葉自体の曖昧さではない「個人のもつ『言葉、もしくは単語』への『内側の基準、もしくは許容範囲』」も無視できないのではないかと思った。そしてこのあたりのことを私は「言葉、文字」で書いているので、なにもかもデタラメだ、ええいままよ。

 

シンさんのエントリを読んで、なんとなく触発されて、以前から思っていたことを書いてみましたが、酩酊状態なので、そこのところよろしく。

どんなに気をつけて言葉を使っても感じ方が違うので齟齬は仕方ないよね、でも「文章」になると好きと嫌いは物凄くハッキリしちゃうかもね、とざっくばらんな口語で終わります。