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ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

変わらない学校、成長する私

つれづれ

昨日お絵描きのお題として「小学校」と頂いた。

小学校生活を思い出すと「無視されるのがつらかった」とか「私にだけ意地悪を言ってくる人がいるのがつらかった」とか。楽しかったことももちろんたくさんあるのだろうけれど、つらいことの方が記憶に残りやすいのか、輪に入りたい入れない入りたくないでも入らなきゃの気持ちを思い出す。

 

あれから随分経ち、マゾヒズムの質なのか、今の私は私を嫌う人を見るのを好む。上から目線とかそういうのではなく、この人は私を意識している、意識しているところを私に見せることを躊躇していない、と自意識過剰もあいまった愉快な気持ちになるのだ。念のために言っておくと「人から嫌われたい」とは思っていない。いつも無難に過ごしたいと思っている。

私を嫌っている人に「私はあなたを特別に信頼している」風の発言をしてみて、その人が戸惑っているところを見る、という遊びもたまにする。この遊びは心底私を嫌っている人には完全に無視されるという惨めな結果が予測されるので注意が必要だ。

 

自分語りは長くなりがちなのでここで終わることにして。

好ましい方向でなくとも私は変化している、ということが言いたかったのだ。

 

一方、学校は変わらない。「個性を尊重」とか言っても別にそんなに尊重されている気配はないし、テストでは相変わらず画一的な正答を求められる。仲間とか信頼とか言いつつ、それは現実には全員に隅々にまで行き渡るほどには存在しないものであったり。

 

そしてコヤツ。

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二宮金次郎(ひじり子さん、お題「小学校」の絵とさせていただきます)。コヤツは子供たちが通う小学校の校庭脇にも置かれている。苦境にあっても勉学に励む姿勢の象徴として、でしょう。しかしながら現実では、やらなければいけないこと(薪運び)よりやりたいこと(読書)を優先させると先生から叱られる。並行してやっても「能率、効率を考えろ」と叱られるだろう。

学校とはつまりはそういうところなのだという逆の教訓のために金次郎はいるのかもしれないとか思ったり思わなかったり。

 

ところで、子供たちによると

「金次郎は夜になると校庭を歩いてるねんて」とか「目からビームを出してるねんて」とか「なっちゃんが冬に学童で遅くなった時に目が光り始めているのを見てんて」とか言っている。その説もなっちゃん的な人物の存在も昔から変わらねぇ。