ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

思う 喋る 書く

頭の中で言葉で考えるタイプとイメージで考えるタイプの両者がいるらしいが、私の姉が前者で私は後者だ。姉は読書の時は音読のような音が頭に流れるらしいが、私は流れない。一般的にどちらのタイプが多いのかは知らないけれど、姉と私はそれぞれの思考方法の違いを知って互いに「なんだそれ」となった。姉が時々独り言を言うのもそれと関係があるのかもしれない。

 

私はいろいろと日々考えているのだけれど、ふと気を抜くと無心になってしまって考えが中断する。中断していることにもなかなか気づけないので考える時には一生懸命考えないといけない(内容に対して一生懸命ではなく、思考を続けるということに)。多分私は禅寺の修行が得意だと思う(ところで禅寺でぴしゃりと叩くのはどういう意味だろう、叩かれたらしばらくは痛くて無心になれないのではなかろうか。まあでもきっと当然何かしらの意味があるのだろうね)。

 

書くことは思考の真実でないと誰かが書いていた。そしてそれを受けて喋ることも真実ではないと。なるほど確かにすべてを真実に書くことも喋ることも出来ない。なるほどなぁと思いながら考えることも真実ではないのではと考えるに至った。自分の思っていることは事実に何だかんだと付け加えて成り立っているのでそれを真実だと確定することは無理。何だかんだの部分にも何だかんだがあり、もうカオス。

特に私の頭の中はイメージに占拠されているので思考自体がデタラメでひっちゃかめっちゃかになっている。

 

例えば数時間前に食べたアボカドバーガーは美味しかったと思考で反芻しても、味やら食感やら匂いやらは纏まって一致団結の状態では蘇ってはくれない。味は、食感は、匂いは、と別々にやってくるし、それは最早食べた時ほど鮮明ではない。記憶もねつ造されているはずだ。誰かが言った発言を再現する場合でも一言一句正確に再現したところでそれはもはや真実ではなくなっている。何もかもが絡み合った状態を再現することも保存することも不可能。記憶も思考も書くことも喋ることも全部真実からは遠い。程度に差はあるかもしれないが、多分それには個人差がある。

 

その混沌を何とかして文字にして書いてみることは私にとっては割合心地が良い。それが真実でなくともなんとなく着地しているような感覚。雲の中で風船とかを持ちながら浮かんでいるよりは、海の上の小舟に立った方が幾分安定しているような、そんな感じ。

 

私にとって文字にしてみるということは、とりあえず海底についていないとしても碇を降ろすことに似ている。底についているかもしれないしついていないかもしれない。それでもここに碇を降ろしたと敢えて認識することで立ち位置が幾分明白に近づいた、みたいな。特に私のカオスの思考の中では一行一行書くに従って碇を降ろしている感じかな。

 

そして今、書きながら落ち着いてくるような感覚がある。なにもかもデタラメならデタラメで良い、仕方がない。デタラメながらやりたい方法で何かしら落ち着きを求めるのも良し。