ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

船場

祖母は大阪の「良い家、良い商家」に生まれた。祖母は船場言葉を喋っていたので、私は山崎豊子さんの小説を読んで祖母の言葉を懐かしむ。

祖母には兄と弟と妹があったが、妹は幼少の頃に亡くなった。妹が亡くなった時に祖母の母は気が触れたようになっていたらしい。

 

良い育ちの祖母は、女学生時代には毎日袴を穿いていたらしい。他の女学生が何を穿いていたのかは知らないけれど、祖母の言いっぷりからすると袴を穿いていた祖母は特別だったようだ。雨で道が悪い日には父が車で学校まで送ってくれ、車から校舎へは負ぶってくれたらしい。なるほど「お嬢さん」扱いだけれど、使用人ではなく父が世話をしていた辺りで程度は知れる。

 

和裁を習得した祖母は尺貫法メートル法を両方使い分けが出来ることを自慢にしていたが、尺貫法が使われなくなって久しいころに自慢をされても全くピンとこなかった。編み物にも造詣が深く、電車で珍しい編み方の帽子やセーターを身につけている人を見かけると捉まえて編み方を教わるくらいに熱心だった。その中でも斜めに変わった模様を入れる人には編み方を教わったものの、結局再現がうまくいかずに悔しかったと漏らしていた。

 

そんな器用で育ちの良い祖母は、三流の家柄の三男と結婚した。もちろん見合いだったが、祖母は当時の適齢期を過ぎていたので選ぶ立場にもなかった。しかしながら、祖父は物凄い美男子でしかも細見の長身だったので、結婚後知人友人近所の人々から「役者さんと結婚しはったんか」と言われ続け、それはまんざらでもなかったらしい。

 

祖父は美男子でお洒落だったが、ギャンブラーだった。銀行に勤めていたのだけれど、銀行という堅い仕事柄借金が容易く先の給料を担保に借金しては賭け事に努めた。そしてギャンブラーの例にもれず負け続けた。

 

小学生だった母に持たせる給食費にも困り、母は惨めな思いをしたらしい。祖母は祖父に当たり散らすし、祖父はそれが面白くなくてますます賭け事に逃げる悪循環。育児環境としては酷い状態だった。祖母は自分が出て行くことで祖父が真人間に戻るのではないかと期待して子供たちを置いて実家に帰った。しかしながら祖母の実家はすでに兄が継いでおり、兄嫁も兄の子供たちもいたので祖母が実家に甘えることも難しかった。少しのお金を渡されて祖父の元に戻るしかなかった。

 

私の母に当時のことを訊ねると、「『お父ちゃんと幸せになりいよ』と言ってお母ちゃんが出て行った時は悲しかった。寂しかった」と涙ぐんだ。普段母は祖母を「おばあちゃん」と呼んでいたが、その時には当時の呼び方の「お母ちゃん」と言っていたのが印象的だった。そして母は母親になってから「お金がない辛さが子供に与える影響」を恐れて専業主婦でいることが嫌だったのだと今になって理解する。

 

祖父は「おじいちゃん」になってからも美男子だった。綺麗な白髪をきちんと整え、化粧水を使い、コロンの良い匂いがした。着物も洋服も良く似合った。晩年は入院していたが病院のベッドの上でさえ佇まいが上品だった。当時は祖母から過去のギャンブラーだった一面をすでに聞いて知っていたが祖父とそのギャンブラーが同一人物だと思考は全く繋がらなかった。

 

もう十分長いですが、さらに長くなるのでここで一端終わります。