ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

おばあちゃん

追記)気持ちの良い記事では無いと思います。読まれなくても良いと思って書きました。書きたいだけで書きました。

 

 

年賀状を書く時期に祖母をクリアに思い出す、と先日書いたけれど、年末の晴れやかな気分の今もやっぱり祖母のことを考える。

 

大掃除も終わり、お正月嬉しいな、と思うにつれ、おばあちゃんに申し訳ない気持ちになる。

 

おばあちゃんは1人暮らしをしていて、徒歩15分くらいの距離に住んでいたので2か月に1回くらいうちに泊りに来ていた。2泊くらいだっただろうか、あまり記憶にないけれど、おばあちゃんが泊りに来るたびに母は「おばあちゃんが勝手に掃除をして家の中のわけがわからなくなる」と文句を言っていたことが多かったと思う。私はおばあちゃんが片づけてくれることを有り難いと思いつつも、いらぬことをして母の機嫌を損ねることに不満もあった。私にとって「おばあちゃんよりも母」だったので。

 

おばあちゃんは小心者で取り越し苦労をするタイプだった。誰が突然来ても良いように住まいは清潔にしていたし、寝る時には翌日の服を畳んで枕元に置いていた。洗濯物を夕方まで取り込まないのは近所の目に対して恥ずかしいので夕刻前には乾いていなくても取り込んでいた。愛用していた鉄のフライパンは油を引いてから仕舞い、鏡台には布をかけ、その布は橙色のちり緬で自作したものだった。自分がどんな風に死ぬのか、汚く死にたくない、とよくこぼしていた。母はおばあちゃんのそういう気質を「くだならい、心配してもしようがない」と嘲笑っていたが、今の私は完全にそういうタイプなので今なら母に気をつかうことなく、おばあちゃんに「わかるわかる」と同意するところだ。してあげられなかったことが残念で悔しい。

 

おばあちゃんは20年前の12月に入ったころ、私のうちに電話を掛けてきた。「今年の年末からしばらくそっちに泊まらせてもらうわ。いいか?」と心配気に。孫の私に伺いを立ててきた。私は母がまた不機嫌になるのではと思いながらなので、「いいよ」と素っ気なく答えたと記憶している。

 

その2週間くらい後におばあちゃんは車に轢かれて死んだ。一台目に轢かれたあとに後続の車にも轢かれたので即死だったし、原形をとどめてはいなかったらしい。遺体の確認は父がした。父はいつも通り酔っぱらっていて、飲酒運転で警察に向かったのだけれど、警察は父の酩酊状態を見て飲酒運転を咎めるどころか「そのくらい酔っていた方がよろしいわ」と言ったらしい。

 

通夜でも葬式でもおばあちゃんの体は見られなかった。箱に納められていた。その箱には私の長姉がその冬の初めにおばあちゃんに贈った紅色の綿入り襦袢が掛けられていた。おばあちゃんはその襦袢を大切にとっておいていたらしい。初めて着たのが箱に納められてからになった。

長姉と次姉は年子で、次姉の産前産後のしばらくの間、母は長姉をおばあちゃんに預けていた。割と長い間預けられていた長姉はおばあちゃんが大好きだったのでおばあちゃんの突然の死に誰よりも悲しんでいたように見えた。

 

私はあれからずっと、おばあちゃんに快く「一緒にお正月を過ごそう」と言えなかったこと、おばあちゃんの心配事に寄り添ってあげられなかったことを悔やんでいる。母が仕事を始めてから淋しかった私の世話をして一緒に過ごしてくれたおばあちゃんに優しく出来なかったことを悔やみ続けている。おばあちゃんがあれだけ心配していた死に際が事故な上、冬の冷たい道路だったことが、今でも悲しくてたまらない。

 

今年のおばあちゃんの命日の法要には出席しなかったけれど、手を合わせた。

おばちゃんが教えてくれた裁縫(かぎ針編みや棒編み、模様のつけ方も教わった)が私に残っている。おばあちゃんが作ってくれたチャーハンは匂いを覚えているだけで味の再現は出来ないけれど、裁縫は次子が好きなので教えている。こんな感じでおばあちゃんを子孫に残している。それは少しでもおばあちゃんへの供養になるかな、なるといいな、ただの私の罪滅ぼしかな。