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ひっそりと

いろいろ思うところをつらつらとつれづれに書いてみようかと。Qka_hsrt☆yahoo.co.jp

これからすること、できること

先日、同い年の友人の誕生日だったのでお祝いメールを送った。私には「友人」と呼べる人がとても少ないが、「量より質」だと切に喜べるほど良い友人に恵まれている。

 

お祝いメールを送った友人は弱視白杖を使っている。私が彼女の傍らを歩く時には「50センチ先に20センチくらいの段差あるよ」とか「1メートルくらい先にくぼんだ場所があるよ」とかの案内する。シナイ山登山もこのようにして達成出来た。彼女が私を信用してくれるから一緒に歩いてくれる、山を一緒に登ってくれる。考えると有り難い。しかしながら、もうかれこれ30年以上の付き合いになるので彼女が弱視かどうかは私にとって些事とも言えるかもしれない。

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そのお祝いメールへの返事の中にこのような言葉があった。「人生の折り返し地点か、そのちょっと手前かもしらんな。まだ50年くらい人生があるとしたら焦ることないよな。ぼちぼちいこう。老人になってからすることなくなっても困るしな」。

 

彼女は読書好きだが、実際には文字を読むだけの視力が無いので録音図書を利用している。録音図書は目で文字を追うよりも時間がかかるので一冊読了するのに健常者の数倍の時間が必要。子供の頃から彼女は私たち健常者より時間を多く必要としてきた。中間試験や期末試験では物凄く大きく拡大コピーした試験用紙を使って時間を延長して受けていた。料理をするときにも目視が出来ないので時間がかかる。生活のすべてを視覚以外で担うので健常者の生活とは歴然とした差がある。

 

その彼女が「ぼちぼちいこう」と言うので、もう私は適当に生きていることがモッタイナイように感じる。彼女の生活の「質」と私の生活の「質」が全く違うと感じる。弱視は生活に不便だけれど、「質」を下げるものでは無い。が、私は無意識のうちに自分の人生の「質」を下げ続けているような気持ちになった。

 

まだ折り返しにも立っていないとして、これから何が出来るのかをちょっと考えてみました。まだまだ範囲を縮小している場合じゃないな、と。